OBアスリートの軌跡

「ベルリンオリンピック出場」鈴木聞多先輩


大正5年4月1日比企郡三保谷村(現川島町)に誕生
昭和14年7月10日、中国にて戦死
享年26歳 慶應義塾大学卒
陸軍少尉

鈴木聞多先輩は、昭和の初期、陸上競技短距離部門で日本を代表する名選手でした。我らの誇りです。当時、陸上競技部はありません。

しかし、私達「川高陸上競技部」の偉大な先輩です。

2004年7月65回目の命日を踏まえ、川島町の遠山記念館で「鈴木聞多展」が催され、OB30数名と見学に行きました。

小学・川中・慶応・日立…栄光のオリンピックまでの軌跡が多くの遺品・写真あわせて149点が展示されていました。ベルリンオリンピックの英雄オーエンスと走る聞多先輩の映像、布製のスパイクシューズ、日本代表の斜めに赤の帯がデザインされたユニホーム、各国のシールが貼られた皮製の大きなトランク……感激でした。

オリンピック、ブロックがなく穴を掘っていた…そんな環境で10秒6はすごい記録です。

ちなみに鈴木先輩は埼玉県で3人目のオリンピック出場者です。偉敬する先輩です。

昭和5年 第16回全国中学校陸上競技選手権大会100m200m優勝
昭和10年> 第10回極東選手権マニラ大会200m3位
昭和10年 早慶対抗陸上大会100mで「10秒6」
昭和10年 国際学生陸上競技ブタペスト大会100m2位(10秒8)
昭和10年 5ヶ国対抗陸上競技大会100m優勝(10秒6)
ベスト記録
100m:10秒6 200m:21秒6 400m:50秒

 
 


 
 
優勝杯1年間で12個獲得! 昭和26年度 (26年4月から27年3月)

二杉さんに送っていただいた資料に「優勝カップ」の写真がありました。
昭和26年度(26年4月から27年3月)1年間に勝ちまくった「証」です。
全国駅伝県大会、県下駅伝、県民大会、学徒綜合体育大会、奥武蔵駅伝大会、狭山湖駅伝大会……など12カップ。
長距離陣がほとんど獲得したようですが…。
続く昭和27年度は、全国大会第3位入賞。まさに我が川高陸上競技部の全盛期!……凄いです。


 
 


 
 
第1回奥武蔵駅伝優勝 昭和27年1月27日

5万人の観衆分け逐鹿戦 中大知事杯を獲得 一般愛好会 高校川越高が優勝

埼玉陸協、飯能町、同体協主催、本社後援の第一回奥武蔵駅伝競走は廿七日躍進飯能町と残雪消えやらぬ秩父郡境正丸峠 (海抜776m)

往復 42.8kmの山間いを縫って埼玉、東京、神奈川、栃木、群馬の一都四県から参加した六十四チームの若人たちによりそう快な逐鹿戦を展開、沿道を埋める飯能、高麗、東吾野、吾野 1町三村約五万の観衆も熱狂的な声援を浴びせ、結局一般では桐生長距離愛好会が輝かしい本社杯を、高校では川越高が埼玉体協会長杯を、大学では中央だいがくが知事杯を獲得優勝した。

(略)

十時半審判長大木正幹氏の号砲一発、一般廿四チーム。同四十分高校卅一チーム、同十一時大学九チームが緑、赤、青のたすきを肩に華々しくスタートするやアスファルトの両側を埋めた小学生は手に手に小旗を振り、商店街の屋根や二階 に鈴なりの町民がさっと投げる紙吹雪が選手の姿に散った。

(略)

二杉 川越高 見事な追込み

高校の部では終始日大第二高(番外出場)と大宮工高が入替に先頭を切り、いずれかが優勝するかとファンをわかせたが最後の中継点で両校から約七百メートル遅れてタスキを受けすたすたと追い上げた川越高二杉君が二百メートルで両者を抜き、 2時間28分15秒で飯能駅前に劇的なゴールインをした。 (以下略)
 
優勝記録

大学の部 中央大学 2時間29分17秒
一般の部 桐生長距離愛好会 2時間35分33秒
高校の部 川越高等学校 2時間28分15秒
  大宮工業高校 2時間28分41秒
  松山高等学校 2時間41分45秒

我が母校が全体でも1位の記録。全国6位入賞の実力がわかります。先輩達は凄い。
毎日新聞 昭和27年1月28日掲載記事より(ニ杉さん4回提供)
 
 


 
 
「襷の歴史」 東島 太一 (5回)

昭和25年11月22日、浦和の埼玉県庁前広場。記念すべき第1回全国高校駅伝埼玉予選の開会式には勿論、我々川越高校も参加した。コースは、県庁前をスタートし国道17号線を上り、途中で旧中山道に入り、戻って来る周回コース。我々も1区二杉(2年)2区東島(1年)3区地山(2年)4区小林(2年)5区山下(2年)6区宮崎(3年)の布陣で出場した。1区ニ杉、幸先好く2位で2区へ東島快走でトップに立ち3区へと襷をつないだが以後振るわず、最終的には11位という結果に終わった。(優勝は浦和高校…全国では21位)

年が明け1月の県下駅伝では1区二杉(2年)2区三上(1年)3区野口(1年)4区守谷(2年)5区東島(1年)6区宮崎(3年)と呉のメンバーとがりと入れ替え見事に3位入賞を果たし関東大会への切符を手にした。(当時、関東大会は2月に行なわれていた。)

2月の関東大会は鎌倉の八幡宮前をスタートし鎌倉山を経て江ノ電と一緒に走るコース。敗戦後まもない貧しい時代。旅館には米持参で宿泊したと記憶している。肝心の競技は18位と真中位の順位で順当な成績で終わった。3月には第1回多摩湖周回駅伝が開催され、米山君(1年)もレギュラーに加わり初優勝。4月には、後の大物木村君も入学し練習に励んだ。8月夏休みには、十和田→八幡平駅伝にも埼玉から浦和商と共に選ばれ出場した。当時の交通事情もあり十和田湖まで26時間の汽車の旅。とても翌日走れる身体ではなく成績はよくなかった(当然)。帰路は秋田の湯瀬温泉で一泊し、盛岡城跡などを見学する楽しい遠征でした。

そして11月21日、第2回全国高校駅伝埼玉県予選会が昨年と同じコースで行われた。

1区野口(2年)2区米山(2年)3区二杉(3年)4区木村(1年)5区三上(2年)6区東島(2年)のメンバーで走り見事優勝、全国大会への切符を手にした。全国大会を前に青梅での奥多摩駅伝に出場し2位、自信を深め全国大会に臨んだ。

12月26日に開催される全国大会に好成績を残せるように余裕を持って24日川越を立つ。当時憬れの超特急「つばめ」で大阪に入り25日にはコースの下見などを行なった。また、宿舎には県知事、県体育協会長、教育長その他学校関係者など多数から激励電報が届き、気分はいやがうえにも盛り上った。

小雨模様の26日午後、胸に埼玉No.11を付け、大阪毎日新聞社前をスタート。我々は予選とまったく同じメンバーで参加した。1区野口、予想以上の好位9位で2区へ、米山頑張ったが順位を落し11位で3区へ、二杉主将快走し7位へと順位を上げて、木村へ。一年生ながら木村さらに順位を上げ5位で5区へ、三上も頑張り一人抜いて4位まで上げた。6区東島頑張ったが全国の強豪には歯が立たず、2つ落し6位でどうにかゴール。でも見事に入賞を果たした。

優勝は世羅高校(広島)2位小田原城東高校(神奈川)3位飾磨工業(兵庫)であった。

距離 選手名 タイム 区順位 通順位
1 5km 野口 ニ三次 16’39” 9 9
2 5km 米山 大恵 17’05” 12 20
3 6.02km ニ杉 誠一 20’13” 6 7
4 5.98km 木村 昭夫 19’27” 6 5
5 5km 三上 正雄 16’55” 9 4
6 5km 東島 太一 16’50” 17 6
1:47’09”

 
明けて27年1月の県下駅伝は楽勝の優勝。1月末の第1回奥武蔵駅伝は、野口、木村、三上、米山、東島、二杉のメンバーで出場、1区からトップに立ち2区木村で更に離し楽勝ムードだったが、3区三上が大ブレーキ2位に落ち、大苦戦だったがアンカー二杉で逆転、記念すべき第1回大会を優勝で飾った。

2月の関東大会。昨年と全く同じコースで行なわれ優勝も期待されたが、全員今1つ調子が上がらず7位と残念な結果に終わった。

3月第2回多摩湖周回駅伝は、二杉先輩を送り出したものの昨年に続き2連勝。

4月、全国大会好成績の影響か多数の新入生が入部、練習も一段と厳しくなり夏のインターハイでは木村君が5000mで全国優勝を飾り、冬の駅伝シーズンが楽しみと成る。またこの時期初めてランニングシャツができた。白地に海老茶の横帯線(幅8cm)左胸には川越の文字が縦に入る当時としては立派なユニホーム(遠くから見てもすぐ判断できる)これを着て全国大会を走るのが楽しみ、全員が揃って着るユニホームは初めて。

11月第3回全国高校駅伝埼玉県予選会が行われた。この大会から現在の7区間と距離(42.195km)になり、新調のユニフォームを全員が着用し走った。1区木村、2区一萬田(1年)、3区米山、4区野口、5区藤野(1年)、6区東島、7区三上のオーダーで出場し、1度も他校にトップを譲ることなく完全優勝、2度目の大阪行きを手にした。

第3回全国高校駅伝は、昨年のコースを延長マラソンと同じ距離で開催された。

試合前日の地元新聞では、インターハイ優勝の木村君を中心に昨年のメンバー5名を要すことから優勝候補の一角に上げられていた。

12月25日、5.5mの追い風の中午後1時スタート。1区木村さすが強く宇部高(山口)に4秒差の2位で2区へ、一萬田前を行く宇部高を抜きトップに立ったが途中で優勝した玉名高に抜かれ2位で3区へ、米山がんばったが中京商に抜かれ3位で4区へ、野口力走し中京商を抜くが松本深志高(長野)小田原城東高(神奈川)に抜かれ4位で5区へ、藤野区間4位の快走で小田原城東高を抜き3位に順位を上げ2位と11秒差で6区へ、東島さらに7秒差まで詰めたが抜けず3位のままアンカーへ襷をつなぐ。7区三上、最終区間を無難に走り昨年の6位を上回る3位でゴール。優勝玉名高(熊本 2:18’42)2位松本深志高定時制(長野)2:20’19)3位川越高(2:20’34)

距離 選手名 タイム 区順位 通順位
1 10km 木村 昭夫 31’49” 2 2
2 3km 一万田 国彦 9’48” 14 2
3 8.1076km 米山 大恵 27’22” 13 3
4 8.0875km 野口 ニ三次 27’35” 9 4
5 3km 藤野 隆司 9’59” 4 3
6 5km 東島 太一 17’05” 7 3
7 5km 三上 正雄 17’06” 6 3
2:20’34”

 
昭和28年1月の県下駅伝は昨年より更に距離が伸びた。1区米山2位で2区へ、三上最初からエンジン全開で2位以下に200m離し、楽勝ムードでエース木村が待つ3区へ(3区は熊谷→鴻巣間の最長区間)しかし風邪気味の木村は絶不調。貯金を使い果たし逆に順位を1つ落して4区へ、一萬田トップとの差は詰めたが抜けず5区へ。5区野口も不調でトップに離され3、4位のチームにも詰められ、辛うじて2位のまま東島が待つ最終区へ……大宮の中継点は黒山の人だかり。1位大宮工が行き、10秒20秒過ぎても野口の姿が見えない。先に松本先生が自転車で跳び込んで来た。呼ばれ「今日は大苦戦だ。負けてもいいから全国3位の意地を見せろ」と激を受け、野口を待つ。1分過ぎ3、4位校と肩を並べタスキは最終区へ。浦和までの7kmで抜けるのか?スタートから全力走(勿論、松本先生も自転車で)少しずつ差は詰まっている様だ。松本先生も必死だ「12 12」と大声で伴走する。与野を通過する頃、前を走る大宮工の選手が近くに見えて来た。更にスパート、北浦和付近でついに追着き、京浜東北線の陸橋でスパート150mの差をつけゴール。全国3位の面目はどうにか保つことができた。

2月の関東大会はコースが変わり、東京・大宮公園間を往復する。川高は、1区三上、2区野口、3区米山、4区一萬田、5区木村、6区東島のメンバーで臨んだ。

1区は路面電車が走る読売新聞社前から板橋小学校まで、三上は1位と大差の無い5位で2区へ。浦和までの区間を野口は、2つ順位を上げ3区へ。3区は大宮公園折り返し地点までの最短区間、米山は1つ順位を上げ2位で4区へ、一萬田はついにトップに立ち1位で5区へ。エース木村は、小田原城東高のエース代田と息詰る熱戦を展開し、殆ど同じに6区へとタスキを渡す。6区東島、暫く並走を続けたが、共立講堂の横でスパートされ付いて行けず3位以下を2分51秒離し、紙ふぶきの舞うゴールに飛び込んだ。小田原城東高校は1区に定時制の選手が走ったために失格、2区以下はオープン参加となった。

首都東京で初めて行なわれた関東大会「優勝」の感動は、56年過ぎた今でも深く心に残っています。

3月の第3回多摩湖周回駅伝は、新卒業生も参加できるようになり3年生の我々も参加した。1区一萬田が大ブレーキするも早い段階だったため4区でトップに立ち、第1回大会より3連勝となった。

以上のような成績で川越高校「襷の歴史」は始まり、今日に引き継がれています。この試合の他にも川越市内周回駅伝、川越松山間往復駅伝などにも参加、いずれも優勝している。全盛期の真中で活躍できたのも、私にとっては最高の喜びです。勿論1人の力で出来た訳ではなく、松本先生を始め先輩、同僚、後輩、その他学校関係者の皆さまの後押し、協力のお蔭と思っています。全国大会も昨年で57回(男子)18回(女子)と回数を重ねています。最近は私立校が強く関心も薄れてきていますが、昨年は女子で熊谷女子高が初出場で話題になりました。川越高校が若し出場出来たとしても、けして初出場ではありません。第2回・第3回出場そして入賞と「うそ」のような本当の成績を残しています。関東大会も同じです。

これから駅伝に出場する後輩の皆さんの参考になればと思い、記した訳です。
 
第2回全国高等学校駅伝競争大会 全国大会

昭和26年12月26日
大阪 毎日新聞大阪本社前⇔石津川
往復6区間32km予選参加校975

優勝 世羅高等学校(広島) 1時間44分31秒

第6位 川越高等学校(監督 松本利雄) 1時間47分09秒

沖縄を除く46都道府県の代表が勢ぞろいした。優勝候補は第1回大会優勝かつ夏のインターハイ優勝校世羅高等学校。1区21位と番狂わせがあったものの5区でトップに立ち優勝した。
母校は初出場で第6位

距離 選手名 タイム 区順位 通順位
1 5km 野口 ニ三次 16’39” 9 9
2 5km 米山 大恵 17’05” 12 20
3 6.0km ニ杉 誠一 20’13” 6 7
4 5.98km 木村 昭夫 19’27” 6 5
5 5km 三上 正雄 16’55” 9 4
6 5km 東島 太一 16’50” 17 6
  1:47’09”  

 
第3回全国高等学校駅伝競争大会 全国大会

昭和27年12月26日
大阪 毎日新聞大阪本社前⇔高石町
往復7区間42.195km予選参加校1039

優勝 玉名高等学校(熊本) 2時間18分42秒

第3位 川越高等学校(監督 松本利雄) 2時間20分34秒

この年、ヘルシンキオリンピックが開かれ陸上界から3選手が参加するも惨敗。
このような背景のもと、始めて7区42.195kmで開催された。

距離 選手名 タイム 区順位 通順位
1 10km 木村 昭夫 31’49” 2 2
2 3km 一万田 国彦 9’48” 14 2
3 8.1076km 米山 大恵 27’22” 13 3
4 8.0875km 野口 ニ三次 27’35” 9 9
5 3km 藤野 隆司 9’59” 4 3
6 5km 東島 太一 17’05” 7 3
7 5km 三上 正雄 17’06” 6 3
  2:20’34”  

 
第6回 全国高等学校陸上競技対抗選手権大会 1953年8月15日16日 横浜市三ツ沢競技場

第6回インターハイは熊本開催が予定されていたが、九州全域を襲った大水害のため、急遽横浜に移された。開会日20日前のことだった。代役となった神奈川県・横浜市は、にわか作りの事務局はプロで編成され宿舎手配から、諸事万端、不眠不休の作業でなんとか間に合わせた。現在のように総合体育大会に組み込まれていたら、準備が間に合わず幻の大会となるところであった。その大会で木村昭夫選手は、5000mで優勝を果たした。ちなみに、創部86年、川高陸上競技部の歴史の中で、インターハイ優勝者は木村昭夫選手唯一人である。

木村昭夫川越高等学校第6回卒
5000m優勝15分48秒8
第2回・第3回全国高校駅伝6位・3位入賞時のメンバー。
2回大会は4区区間6位。
3回大会は1区2位。
第6回インターハイ5,000m優勝記録:15分48秒8
 
 


 
 
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OB会が存続、発展していくために必要なこと。会員一人一人の協力…モチベーションをどう維持するかそれしかありません。
HPを作れと総会時に言った諸氏、つくる立場を考えて協力しろョ…。
一時の熱意・思い入れでは「OB会」は続きません。 せっかく創れたOB会を潰してもいいのかョ。OB会員「諸氏」!

(事務局広報担当:栗原記)